2010年10月05日

龍馬伝40「清風亭の対決」

前回晋作が「初期転原」となった事を伝えました。このキーワードをテーマに語りましょう。今回は自身のバースビジョンを知る上で欠かせない取って置きの秘話を扱います。
物事が立ち上がり、事が成すまでの展開は、その事が大きな課題であるほど多くの人の力を経て成し遂げられます。ゼロから一までのエネルギーが一番労多く実り少ない時期です。

成すという数字が仮りに〔7〕とすれば、龍馬の位置は、6か7、限りなく完成段階に近い。西南戦争を経てようやく明治の世が安定化した。よって、8,9,10は、明治維新が成った後の10年と言えましょう。では、維新の第一段階はどの時代の誰が始まりか、というと諸説ありますが、私は「大塩平八郎の乱」が原点ではないかと思う。
江戸時代の天保8年(1837年)に、大坂(現大阪市)で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱。直ぐに鎮圧され自刃したが、腐敗した政治を正そうと命がけで行動した事件は、太平に慣れた世の人々に少なからぬ衝撃を与えた。
この「知行合一」精神を旨とする陽明学者の思想を引き継いだのが、佐久間象山であり吉田松陰先生である。この時点ではまだ、倒幕も討幕も実を結ばず、朝廷と幕府は手を取り合い諸外国に立ち向かうという「公武合体」が主流で、薩摩もそれに乗り、幕府に篤姫を送り込んだ事は、前回の大河ドラマでご存知の通り。薩摩や土佐は動向を見ながら、右や左に揺らぎながら時局を泳いでいったわけだ。
しかし長州では、一時的に「航海遠略策」というまやかしの公武合体論が出たが、松陰先生の教えを一貫して守る晋作たちが、その過ちに気づき藩論を直ぐに攘夷開国へと転じる。情報操作を見抜く眼力を鍛える事は、現代人にも不可欠な能力といえよう。
ここで攘夷開国と言うのは、ごく一部の松門に限った認識であり、長州と言えども大半は攘夷一色であった。当時、天皇を重んじる尊王と夷敵を打ち払えという攘夷が結びついて、「尊王攘夷」という考え方と、幕府を助けて開国を目指す、という「佐幕開国」の二種類しかなかった。ところが上海の惨状を見た晋作は、開国して西洋技術を取り入れないと日本は侵略される、という危機意識を持ち、開国を持論とする。ところがただ闇雲に港を開いても、経済的・文化的に侵略され植民地となるだけだから、日本人の矜持を見せ付けてから(つまり戦い)、その後に対等な形で開国し貿易をせねばならない、と考えて、攘夷開国という概念を生み出した。師松陰先生の実学の凄さがそこに現れている。

長州藩の凄さは、若干28歳そこそこの若造の意見を政治に取り入れ、藩を動かす力としてしまうことだ。大金を使い5人の若者を英国に学ばせるとか、武士階級の特権を奪いかねない奇兵隊の創立を認めるとか、極めて柔軟な意思決定力には目を見張るものがある。封建社会の建前を自ら否定する発想の柔軟さは、変革しようとする社会に先駆ける人たちにとっては、必須の条件である。
さて、大塩平八郎の乱〜ペリー来航でゼロ〜〔1〕、安政の大獄で松陰先生処刑、攘夷派が一つになるまでを〔3〕とし、桜田門外の変で井伊政権崩壊を〔4〕としよう。続く攘夷決行で〔5〕、8・18の政変から薩長同盟で〔6〕、禁門の変をはさんで長州征伐と小倉戦争の勝利で〔7〕。

ざっと維新の転換点をこう見ていくと、もうドラマも峠を越したことが分かる。ここで言いたいことはいくつかあるが、バースビジョンの成就に必要なのは、

1.がまん。
時勢を読み、己が関わる時期と場所を見極めること。(第38回「霧島の誓い」での龍馬がそう。一仕事した後は、一旦身を引き、休養を取り、時局を見定め己の成すべき事を見定めようとしていた。)

2.天分。
一人で全部を行うのではなく、大きな河の流れ〔大局〕の中で自己を捉えること。(上記の倒幕への歴史は、個々にしてみれば小さいものだし、一見失敗したかに見えるものも多いが、後世の眼から見れば、明らかに関係しているのが分かる。)

3.処世。
仮に見ず知らずの人との間でも関わりあい、関連性をつかみ、歴史の流れの中に身を置き、処すべきポイントを見定めて行動すること。〔龍馬や晋作の行動を見れば分かるように、逃げたり隠れたり、打って出るべきではないときはさっと引く術を身につけている。また常に時代の流れに関して、本物のナマの情報を入手する努力を惜しまない〕

この3つが挙げられよう。
とするなばら、目先の損得や、当面の結果に一喜一憂することなく、常に大局に身を置きながらバースビジョンを模索できる。
晋作が三味線を戦場に持ち歩いたというのは本当らしいが、それこそ大局を知り〔相手は大軍だろうと本気ではない、と知っていた〕、戦局を知り〔漁師にあらかじめ門司側に潜伏させ、敵の動向を逐一報告させていた〕、民の鬱積を理解し〔幕府の後ろ盾がなくても独立できると確信していた〕、根拠のある自信から来る表れだろう。

龍馬のほうはと言えば、まるで薩長同盟や大政奉還が一人の手で成されたように描かれているので、ドラマの解説はしまい。何故そこに勝海舟らの入れ知恵や中岡慎太郎の実行力がもっと描かれないのか、と思うが致し方ない。敵(かたき)であった後藤象二郎と手を組んだことによって、土佐の郷士からも疎まれることになったのだから、その孤独感たるやいささかなものがあったであろうか、崇高な理念の持ち主であったことは間違いない。
(前回は、39回でしたね、すいません。)
posted by 大石 at 14:27| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月04日

龍馬伝38「馬関の奇跡」

馬の関、と書いて馬関。かつては赤間が関とも言った、私の住む町、下関。なぜ東京もんの自分が大阪滞在(半年)、福岡在住(6年間)を経て、下関に住み着いたのか今でも不思議である。確かに都会から田舎暮らしに徐々に移行しようと決めたのは確かだが、予定では今頃阿蘇に移り住んでいるはずだった。
今ビジョンヨガでは、「ビジョンってどういう意味?」という議論がなされている。私の経験では、確かにビジョンを描けば実現する、という現実を経ているが、あるときから描いたとおりに(つまりビジョンの通りに)進んでいない、むしろ予想もしない展開に自らがついて行っている状況を迎えた。そしてその新たな流れが、決して流されているのではなく、「気づかなかった本流」へと近づいているような気がするから不思議だ。

ということは、ビジョンとは目標や願望や計画などの類いと違って、それもありだろうが必ずしも描くものではなく、既にあるもの、思い出すもの、記憶をたどるもの、そんなイメージが本来のあり方だということだ。人の数だけバースビジョンがある、それらの織り成す世界もまた無意識のうちに醸成され、大いなる意思と結合し、やがて成就する。
さて、下関で展開される偉人たちのバースビジョンがどう成就されようとするか、見ていくことにしよう。今のところ、私が下関に来た目的は、高杉晋作の生き様に触れるためであった、と言えるのだから。

●龍馬伝38「馬関の奇跡」

晋作曰く、
「百万の大軍、恐るるに足らず。恐れるべきは、我ら弱き民、一人ひとりの心なり」。

奇兵隊の隊規に実際に記されたものです。加えて「むやみに田畑を荒らすべからず」「金品を要求してはならない」など民を慕う心得を記したものもあります。奇兵隊を作った晋作が考案したものとされますが、動けば雷電の如くと恐れられた晋作の繊細な一面を感じさせます。
長州を割拠(独立国家にすること)するため馬関を開港しようとして、開国派と思われ攘夷派に狙われ、井戸の中に一日潜伏したり、幕府側(佐幕派)だけではなく見方にも暗殺されそうになった晋作は、常に孤独の中にいました。

ドラマ中出てくる小唄「俺とおまえは焼き山かづら、表が切れても根は切れぬ〜」のおまえとは、萩の俗論党打倒に立ち上がらない山県有朋を表したものです。晋作は見方にも裏切られ親も捨て子を捨て、不忠と罵られようと萩本藩に本当に打ち込みに行こうとし、一人で立ち、功山寺で78人の同志が集まり決起し、軍艦を奪い取った段階でようやく山県が重い腰を上げ、長州中の商人町人が同調し、クーデターを成功させ、藩論を「武備恭順」(幕府に逆らうこと)に統一させた。
その後ご覧の通り、四境戦争(小倉口など)で幕府に勝利し、大藩薩摩をその気にさせ倒幕の気運を高め、土佐が同調し、肥後(佐賀)が相乗りした。西国の雄藩が連合したのだから後は雪崩を打って、東へ進むだけとなった。全ては晋作一人の決起から始まった回天義挙なのです。

明治維新はこうして下関(馬関)から始まったと言って過言ではありません。その元となるのは松陰先生の「草莽崛起」(そうもうくっき)思想であり、松下村塾が母胎であったことから、萩を「明治維新胎動の地」、下関は「維新発祥の地」と言われています。

ビジョンヨガは、マタニティヨガを重視し好評を博していますが、まさに胎動の時(母胎にあるとき)にどのような環境にあるかが、後々の人生の大きな原点となる、という考え方から来ています。
まさに三つ子の魂百まで、ということわざ通り、3歳までの生育がその後成人してからの人格や個性の形成に大きく影響しているのです。
そういう意味では、近代日本を語る上で、日本の思想的母胎であった松陰の教えがいかなるものであったか、またその思想や国家形成理論を忠実に再現した行動を取ったその後の晋作を始めとする明治維新への立役者の行動原理を学ぶことは、現代の問題を解決する鍵を握っていると言えましょう。

例えば、今回の「百万の大軍を恐れず、弱き民を恐れよ」とは、今の政治に当てはめてみれば、全く逆のことをやっています。大軍を持つ米国の顔色ばかり伺って、一般大衆をメディア戦略で騙してばかりいる、と言う具合に。松陰先生は、権力者のそうした情報操作を研究しつくし、京や江戸に使者を飛ばし「飛耳長目」の名の下に、情報収集に努めたり、名もなき民衆の力を集めて武装蜂起せよ、と草莽崛起論を展開した結果、晋作の手によって奇兵隊が誕生しました。
晋作は、まぎれもなく維新の初期転源です。

「侍だけでは、世の中は変わらない」「わし等の力で世の中を変えるんだ!」「子供たちの未来のために」と、草莽の志士たち(つまり農民等)が立ち上がった結果、今の日本があると言うことを忘れてはいけません。単なる百姓一揆ではなく、草莽の力が一つになったのは、日本いや世界の歴史の中で長州だけかと思われます。その力の根源となったのが、松陰の思想ー晋作の行動ー大村益次郎の仕上げ、という系譜なのです。
こうした気概を持って私たちも、世の中を変えていかねばなりません。

龍馬が長州藩の殿様に拝謁したのは史実ですので、馬関戦争では功績を挙げたものと思われます。
しかし役割としては、人と人との接着材として、あるいは思想と思想のまとめ役として多大な功績を残したものと考えます。晋作同様、あちこちからうらまれることになるわけで、同様の孤独感があっただろうことは想像できます。

バースビジョンの成就にあたり、世の中を変える使命を持った人の役割を果たす過程で、避けて通れないものが「孤独感」だと言えなくありません。

posted by 大石 at 16:37| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月09日

龍馬伝27「龍馬の大芝居」

龍馬という歴史上の人物をバースビジョン的にみると、実に多くのポイントが映し出され、人が人生の目的に目覚めてゆくとはどういうことか、現代人にもわかりやすく気づかせてくれる。
どんなことに気をつけるとバースビジョンを見出しやすいのか、どういう時にどんな行動をすると波に乗ってゆけるのか、見失いそうになったらどうするか、というポイントが大河ドラマを見ながらでも視点は豊富にある。
窮地に立たされた時に取る行動は、決まって地が出る。つまりその人らしさがくっきり行動に現れ出る。そういう時の無意識的行動こそ、魂と直結した部分が、潜在意識から表に現れる時だ。史実とは全く無関係と思われる土佐帰りの様子は、ドラマ上の演出でしか過ぎないが、ケースワークとしては、人物像をくっきり表わしていて面白い。
龍馬にとって軸になる行動規範は「ともだち」なのだ。大義よりも友達の窮地を救う性を持っている、それが今回はっきり表れていた。
友達の窮地を救うという発想と、日本の窮地を救うという発想が、見事にリンクしていて、神経細胞のすみずみまで自動反応として沸き起こるのだろう。そういうバースビジョンをわかりやすく(このドラマでは)演じている。
土佐(高知)には、自由民権運動が盛んに起こる土地柄なのだが、龍馬が火をつけたというより国の体制に反する風土(土壌)があると言える。バースビジョンに気づくためには、どうしてもこの土壌という潜在要素と切って考えることはできない。切って自分の個性としてのみ見ることができないけれども、かといって潜在する土壌の個性まで読み切ることは難しい。
だから無意識的行動の中に、土壌に育まれた自分らしい生き方や判断の仕方が現れるのだろう。それをできるだけ表層で意識できれば、土地のエネルギーや出会った人の力を受けて躍動できる。
龍馬は、脱藩はしても土佐本来の自由で開放的で権力におもねらない風土をしっかり根付かせていると言えよう。相手の肩書がどうであれ、心にスッと入ってゆけるのも、不可能の壁をまっすぐ通り抜けていこうとするセンスも、

友達を救うために生まれてきた、という根っこにある人生理念

があればこそ、脱藩したから国元へは帰れない、という既成観念の枠などものともしない自由闊達な行動規範が得られた、と見ることができよう。

posted by 大石 at 12:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月29日

龍馬伝26「西郷吉之助」

いよいよ大御所の登場で歴史は急転回します。加速度を増して明治維新への序曲へ入ります。まだ表面的には幕府(あるいは幕府に付く土佐藩)は権威を保っているかに見えますし、実際のところ倒幕派(長州)も海軍派(?龍馬ら)も土佐郷士(武市)も、260年続いた権威・権力の前では手も足も出ません。

が、前回述べたように長州は大底です。いや底から一歩浮上したと言えるのです。その証しが薩摩軍の長州征伐撤退。ドラマでもそのターニングポイントは描かれていましたが、龍馬が頼んだから征伐を辞退したのではなく、大西郷をして時勢がそう判断させたのです。

薩摩を一番に重んじる西郷の腹の中は、決して黒いわけではなく高度なバランス感覚と藩政の舵取りによって、時勢を読んだ結果であり、あくまで幕府と共に生きようとする会津や新撰組、徳川への恩義にのみ生きる土佐の容堂と根本的に異なるところです。

何が真の大義で、何が不義・不忠か、という視点は、幕末に生きる武士たち、そして藩にとって生死を分ける難題だったが、どちらにも義がある、どちらも正しい道と思いたくなる思想的混乱期において、理路整然と大局方針を打ち出し、絶対的な至誠を貫き指導した人物こそ、吉田松陰先生である。

松陰先生は、つまるところ、長い間天皇を頂点(国家の象徴)とする国体を保持してきた日本のあり方を、源頼朝が鎌倉幕府を開くことで天皇から統治の主権を奪い、それが嵩じて江戸幕府は、何を血迷ったのか、天皇の裁断も得ず、開国してしまった、これは西欧の侵略の前触れだ、だから幕府を正さねばならない、正せねば倒さねばならない、朝廷も長州藩も当てにならなければ、私一人でやる、草莽の力で本来の日本に戻す。
そういう筋道で国のあり方と道筋を指し示し、その論理性と情熱で長州が大攘夷を実現する礎(いしずえ)となったのです。
だから桂にも揺るぎがない、松陰の直弟子、長州の久坂玄瑞に多大な影響を受けた武市も揺るぎがない。そこには国を辱めることになる方向に向かおうとする幕府に追従する土佐藩では土佐が世間の笑いものになる、という意味で、「大殿様の恩ため・・に」を武市は繰り返す。

武市は殿を妄信しているようでいて、実はその先の日本にとって取るべき道を説いただけで、その軸に生きた以蔵を裏切り者ではなく志士として本懐を遂げさせようと、毒饅頭で殺害しようとした。その心を悟った
弥太郎の父は、立派な武士であり、差し入れを怖がった弥太郎は、既に武士ではなくなった。差し入れて楽にさせるは武士の情けであったはず。

武士の魂を捨てた弥太郎が三菱を興して、自己の利益のために政商となり軍国主義をあおり、産業立国・経済大国、米国偏重、果てはエコノミック・アニマル、環境破壊、精神崩壊を招いたという筋として、歴史を見るべき時期に来ている。
また龍馬のような優柔不断の態度は、バースビジョンに軸がないから起こる心の迷いである。これだけ恵まれた環境にありながら、今だ自身の心に揺るぎない軸を持たない、だから、西郷の誘い(薩摩に匿われ、軍艦の操縦法を薩摩人に教える)に素直に乗れず、ただただ戦争を起こした薩摩のお世話になどなりたくない、という私情だけで、迷ってしまう。
結局路頭に迷う仲間のためにしぶしぶ頭を下げる場面が目に浮かぶが、なぜあそこで、国家のためには、自分たちの力を薩摩の力を借りて大いに振るうときが来た、と判断できないのか、まだまだ(ドラマの中で見る限り)自分たちのユニークなバースビジョンが見えていない、という側面が感じられる。
幕臣勝の権威に頼った生き方ではなく、航海術にせよ、己の腕で天職を生き抜く道を開始するべきなのであるが、多くはそれに気が付いていない。大底は、買い場なんだということに。「自分たちは高く売れるんだ、誇りを持って薩摩に高く売ってやれ」という気概が。少なくとも今回の龍馬には微塵も感じられなかった。

それでも時代の流れに揉みこまれるように、渦の中心へといやがおうにも導かれる。それがバースビジョンにスイッチが入った人物の道である。
それを意識しまいと、好ましく思わないであろうと、避けることは出来ない。ならば自らの無意識が選んだ潮流に飛び乗った方が賢明というべきだ。
龍馬にとっては、薩摩で新婚旅行というストーリーまで組み込まれているのだから。何を躊躇する必要があろうか、というものだ。
posted by 大石 at 16:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月22日

龍馬伝25「寺田屋の母」

今回の舞台、寺田屋には一度行ったことがある。龍馬の手紙やら色々な幕末関係の資料が一杯あり、ファンにとっては飽きることがない。今でも宿泊できる程家の造りがしっかりしている。昔の木の家は頑丈だ。
最近の記事は「潮流を読む」という視点で描いているが、ここ寺田屋の女将「お勢(とせ)」も潮に乗る達人だったと言える。次から次へと志士たちを迎え入れ、匿い情報を提供した。
新撰組など佐幕派から狙われるから命がけの宿主とも言えるわけだ。歴史に残るだけでも大きな切り合いが二度もあり「儲かりそうだから」などと甘い理由で志士の定宿となれるものではない。
あくまで良い日本を作ろうという志士の活動を支援するという腹を据えた志があっての女将業だ。揺るがぬ志があるから、新撰組の脅しにも負けず、事業方針もぶれず無銭の脱藩浪人をも目利き一つで泊まらせる。教育者でもあり、事業家でもあり、女流志士であるお勢の存在は、数ある幕末史の中でさえ光り輝くものがある。
時代を変革する担い手として志士の如く活動する女性は、一度宿泊され刺激を受けると良いと思う。(素泊まり5千円だったか)

さて、幕府の頑なな態度は、長州追い落としにかかった。ドラマでは長州のせいで街が焼け野原になってしまった、その悲惨さを描いている。
確かに平和主義者龍馬の言う通り、内戦など起こすべきではないし、お龍の言うようにとばっちりを受けるのは、関係ない市民だ。
しかし長州を弁護するわけではないが、それが京の街に住む者の定めだった時代かと思われる。
京では「この間の大火」と言ったら蛤御門の変を指すらしいが、応仁の乱など常に戦乱で焼け野原になってきた街の宿命だろう。その反面では、御所があるお陰で様々な商品や文化が発達し、経済的にも潤ってきた一面もある。政変で御用商人も一遍で飛ぶから、潮流を読むセンスを常に磨き上げてきた土壌があると思われる。
薩摩の陰謀で長州が朝敵となった。史実では久坂玄瑞は主戦派ではなく、何とか話し合いに持ち込もうとしたが、久坂も桂も晋作も、池田屋事件で逆上した長州人の暴発を食い止めることが出来なかった。

いったん動き出した組織の勢いというのは、たとえ一部の優れた人間が大局を読み、誤った道を食い止めようとも、出来ないことがある、という厳しい事情を、乞食にやつして京の情勢を探る危険な使命に挑む桂小五郎の姿がよく表している。
「正義は長州にあり!」と叫んで自刃した(ことになっている)玄瑞や、「長州は必ず復活する」と言い残し龍馬の元を去った小五郎の思いは、やがて実を結ぶことになる。が、今はどん底。正確に言えば、これから長州征伐がやってくるのだから、現象的にはこれからひどくなる一方で長州は壊滅するばかりとなる。
しかし、株でいったらここが買い場。長州はこのどん底が底値。ここで長州を見限るか、あるいは引き続き支援するか。ここが周囲にとっては決断の為所なのです。
お勢は、どうするか、いわゆる「相場観」という観点から見てみるのも面白い見方です。
長州がこけて、ここが仕掛け時とばかり、慶喜は勝を見限る。連鎖して海軍操練所は閉鎖。龍馬らは、行き場を失う。そうした龍馬を見限って支援を打ち切るか、引き続き応援するなら、お勢は何を拠り所として龍馬株を買うのか。長州もんを幕府に内緒で匿うのか。

どん底で諦めるのは誰にでも出来るし、失意の人(企業)を見限り切り捨てるのは誰でも出来る。そうした時に、ここが底値だ、買い場なんだと「火中の栗を拾う思いで」(相場用語)買って買って買いまくる勇気や行動力はどこから沸いてくるのか、と言う視点で続きを見てもらいたいと思う。
単なる空元気や、根拠のない気勢ではなく、猪突猛進の闇雲なパワーでもなく、潮流を読む能力があるからこそ真の力と知恵がわいてくる、そんなエネルギーを感じ取ることで、バースビジョンの大潮流が浮上します。勝の言う
「(神戸の)操練所がなくなって、誰がこの日本を守るのか!」という気概は、大局観から来る自信の表れです。
何にもなかった神戸村が、異人館が立ち並び西洋文化の窓口としての機能を果たすことになるのですから、人一人の思いは後世に遺すものがあるのです。




posted by 大石 at 16:45| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月17日

龍馬伝23「池田屋に走れ」24「愛の蛍」

二話連続で書くことにします。今回のテーマは『潮流(トレンド)を読む』。
時代の潮流を読むには、いくつかコツがあります。幕末史を研究すると誠にこの潮流予測がどれほど大事かがよく分かる上、現代の潮流分析には欠くことができない共通性で溢れている。

ドラマでは夫婦の絆や師弟の絆など個人と個人の固い結びつきを描いている。が、その事は日本の原点としてぜひとも再認識するべきだとの思いを述べるに留まり、引き続き社会情勢の移ろいと現代を結びつける論点に終始することにしよう。

『潮流(トレンド)を読む』。これはどのようにしたら身につくのか。

文久3年5月10日の攘夷期日を機に起こった8・18の政変から、池田屋事件を契機とする蛤御門の変までおよそ幕末における大転換期の中でも特に重要な分岐点だったと思われる。

ドラマの登場人物を例に挙げて、潮流をどう捕らえていたか簡単に見てみよう。
真っ先に潮の流れに乗り損ねたのが武市。黒船来襲から安政の大獄〜井伊直弼暗殺までの攘夷の潮流に真っ直ぐ乗っかっていって、攘夷期限でピークを迎えた。小攘夷がやがてピークアウトするという潮流を読み切って頭角を現したのが容同公を初めとする公武合体派。
武市に続いて、藩の枠を超えて天皇を中心とする連合国家を樹立しようとする大義を構想した攘夷派久坂玄瑞も来週には蛤御門の変で敗れ、長州は孤立する。

代わって台頭してきたのが、公武合体派の頭、薩摩とその構想を支援する会津、その庇護の元で京の治安を守る新撰組。大河ドラマ篤姫では、佐幕派から見た幕末を扱ってきたので、それを想起しながら視点を変えて観ると幕末がよく見える。
薩摩は最終的には、倒幕の方針に切り替え、明治国家の中枢に位置する勝者となるが、この時期はまだ、篤姫を幕府に差し出し、公武合体を画策し、幕府を助ける(佐幕)立場を取っている。
トップが斉彬から久光に代わって本来の路線を変えざるを得なかったわけだが、おかげで精忠組は寺田屋事件で真っ二つに別れ、同志と斬り合う定めとなる。これもまた潮流の読み方一つで運命が決まる、という悲惨だが分かりやすい例である。

そうした中で龍馬は、土佐藩の方針にも攘夷の動きにも左右されず、海軍育成まっしぐらというトレンドの中に生きる決心をしている。それも過激攘夷派のあおりを受けて、来週辺り操練所は閉鎖となり、逆風を受ける。(が、長期トレンドは間違いないので、また後に復活をする)

弥太郎などは、もっと緩やかに、家族の絆を大事にしながら、幕藩体制が倒れた後の西洋文明化を睨んだ、経済立国を志している。本人は日々懸命に生き抜くのみだが、これだけ周囲がどよめく中で、材木をリアカーで黙々と引く姿は、近代まで続く長期トレンドを見据える潮流感覚の持ち主であることを想起させる。

このように観ていくと、潮流は一つではなく、複数の波が押してはかえすように、折り重なるようにしては現れ、引いていくことが分かる。
さらに、大きいウェーブの中に小さな波もあり、複雑な中にも、よく見ると(後から振り返ると)、整然とした秩序があり、確かに全てが繋がりあって歴史が綴られているのが分かる。

そう考えると、現代人は、とかく目先の利にとらわれすぎて、大局を見失っているように思う。やれ何が儲かるか、とか、どうしたら出世するかとか、どっちの店が安いかとか損得ばかり思考しているような風潮がある。
小さく早く展開する波には適応するが(流行に機敏に乗ったり)、資本主義(拝金主義)というものが崩壊寸前であるにも関わらず、まるで幕末期にいつまでも偉人どもを皆殺しにせよ、攘夷じゃ!と気勢を上げているような愚かさを感じさせる。
何のために儲けるのか、その志も持たず、生活するため、家族を守るためとしか答えられないようでは、神国日本を守るため、といって短慮な小攘夷に走り、ロシアと開戦し、過信して第二次大戦に向かっていった愚かさと何ら変わりない。

潮流を読むために必要な要素はたくさんあるが、第一に志である。
志が確立していなければ、どの波に乗ればよいか分からない、人の意見に右往左往してしまい、あげくに間違ってしまったら、人のせいにしたくなり惨めだ。
ドラマを観てつくづく思うのは、長次郎一人とってみても誰の命でもなく打ち立てた志を有する者が多くいて、志した事が未達成で終わっても悔いがない、という姿勢〔至誠〕を貫いていることだ。
自分が乗るべき潮流は、志した方向に合致すると自ら判断した流れに身を委ねること。ひとたび委ねたら少々のことでは揺らぐことのないよう腹を据えること(逆風は必ずあるがじきに過ぎ去るから)。
龍馬を観ていると、師との出会い、伴侶候補への身のこなし方、盟友との決別などバースビジョンに沿った大潮流に乗るための伏線をきちんと踏んでいたからこそ、自分を必要とする安堵する場所に巡り合えたと言えよう。

次回から、窮地に追い込まれた長州人に置ける潮流の読み方、処し方に触れる。幕末・明治維新から現代を紐解くには、長州という存在を語らねばなるまい。

posted by 大石 at 13:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月11日

龍馬伝22「龍という女」

お産をする女性はすべて、命を賭けている。
そんな事も自覚せぬまま、病院の先生が、子供の命の責任を取ってくれる、とカンチガイして訴訟を起こしている無知な母親たちは、まるで日本が異国に乗っ取られようとしているのに、何もせぬまま呆然としている幕府と同じように見える。自己責任という重みのかけらも持ち合わせていない。

今回のタイトルで、ようやく竜馬となっていたことに気がつきました。(失礼)
今回のテーマはずばり、「幕末の女性もまた志士だった」。

前回、「命を賭けて、子供の未来を守る母親志士。」という言葉をはじめて出した。これは思いつきでも何でもない。「三つ子の魂百までプロジェクト」を立ち上げたときから、胸に抱いている想いだ。
自宅出産を経験すると、真剣にお産は生死の境目だと言うことが分かる。自然なお産を志す母親は、その経験を活かして子供の未来を救う志士的活動に命を賭けるべきだと思う。

幕末の時勢から、現代の潮流を読めば、志というものが忘れ去られた日本人の姿が見える。子供たちには、なんだか正義など振りかざすとかっこ悪い、という風潮もあるだろう。ごみを捨てるな!などと友達に言おうものなら、仲間はずれにされるみたいな。

しかしその正義も道徳も失った日本の潮流は、一時のもの。その気流の変化に敏感に反応しなければ、文字通り命取りとなろう。
子供の命が蝕まれる現状は救いがたい。と言うことに気がつくだけでも底流に起こっている時流に気づき、何とかせねばならない、と悟るだろう。

男にとって、女性との出会いとその助言が、結局のところ人生の大局で天命を見誤らない必須条件である。これは持論だが、歴史が真理だと教えてくれている。
龍馬を例に挙げれば分かりやすいが、加尾と一緒になれば土佐にあだたぬ(収まらぬ)はずの人生が台無し。千葉佐那子を嫁にもらえば、一介の剣術家で終わり。
成長のステップになる出会いを受け止め、スルーできるだけの判断力・決断力を持ち合わせてさえいれば(それが現実には難しいのだが)、天婚相手が人生の指針を示す場合がある。

「二人の京」では、「生きる道を教えてくれる誰か(に出会うために江戸へ行く)。そしてもう一人は・・・」
とあったが、もう一人とは、生涯の伴侶と出会う旅だと言いたかったのだろう。勝とお龍。これでどんな困難や難しい判断にも間違えずに突き進む条件がそろった。
なかなか人生を照らし出す師にめぐり合えない、なかなかこれは、という生涯の伴侶に巡り合えない、という方は、勇気を出して、”脱藩”してみてはいかがだろうか。

伴侶に出会うための脱藩のあり方は、人それぞれ。

・順調に行っていた仕事場をたたんで、一人、新天地へ赴任する大石パターン。
・留学するという名目で、別の道を志す中で出会う龍馬パターン。
・親と同居する暮らしを手放し、経済的に自立する、キャリアパターン。
・天職に出会う過程で、つながる人の中から探す、天婚パターン。
・パートナーよりも子供が欲しいという想いを増幅させ、転生準備界にいる魂に呼びかける、受胎マグネタイズパターン。など。


貧乏暮らしでも心の支えになってくれた弥太郎の妻は、「おまけ」を付けて材木を売るアイデアを提供し、それがきっかけで全部売れ、転機を掴んだ。

もう二度と会えないかも知れないとの悲しみがよぎる中、取り乱しもせず見送った武市の妻は、「夫の信じる正義についてゆく」という姿勢を崩さず、最期までその正しさを信じ続けた。

そして龍馬の妻になるお龍は、これから龍馬の命を助け、志を助けることになる。志士たちの妻を描く本が出版される程、実は志士としても影に日向に生きる女性たちの姿を今後とも、ドラマの中で注目し、現代の女性の生き方の参考にしてもらいたいと願う。

封建時代は決して、女性蔑視、男尊女卑ではなく、それらは明治になってから中央集権国家を樹立するために作られたものである、と。
戦争をこの世からなくすために必要なのは「イデオロギー(思想)」ではなく、「デモクラチー(民主主義)」でもない。
母親の母性であり、子宮で想う本能の力なのだ。





posted by 大石 at 17:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

竜馬伝21「故郷の友よ」

拙著「バースビジョンノート」(ビジネス社)の中に、志の水準、というものがある。21項目に渡り段階的に描かれていて、自分の目指す志がどの程度の力を持つものか、そのレベルを推し量れるというもの。
好きで打ち込むことが出来る、というものから、果ては、
「たとえ自分が死んでも、同志がその思いを引き継いでくれるという安心感がある」。
そんなたいそうなレベルもある。

たとえ自分が死んでも、ってそんな事は、現代では思うことすらできないし、たとえ思えたとしても、志を果たすために死ぬような場面は恐らく遭遇することすら想像できまい。
しかし、竜馬のいた幕末は、ある意味その感覚が当たり前の状況であった。あとは、時勢を読んで、自分の天命を知り、自分の命の散らし場所を見定める、というような時代である。
(注釈;それは日本中から言えばごく一部の者だけのことである。多くの町民や武士でさえ、幕末の動乱に右往左往しながら、あるいは無関係に生きていたことだろう。)

今回のテーマは「時流を読む」。時の流れを見誤れば、志もまた、果たせずに果てるのだ。
8.18の政変で敗れた攘夷派は、長州へ落ち延びる。この機を予測していた容堂は、京の勤皇派に帰国命令を出し、無視すれば脱藩の罪を着せる。大弾圧の始まりだ。しかし殿様の命に背くことは出来ない。

藩があっての自分、そう細胞レベルで信じ込まされてしまった封建制度のマイナス要素である。ゆえに純粋に自己責任ではなく、武市以外は半ば自動反応として何ら疑うことなく藩へ帰ってしまう。その事が痛いほどわかる武市は、竜馬の願いを振り切り、土佐へ帰ることを決心する。

同志と共に生死を分かつ覚悟で。最後の望みを託して。これが責任の取り方である。武市の姿は崇高な精神を感じさせる。ゆえに未だに地元では竜馬より、武市が尊敬の対象となっていると聞く。
ただ妄信的に「攘夷の灯は決して消えていない」と叫んだのだろうか。
否、決してそうではないだろう。風前の灯だった武市の同志・長州久坂玄瑞らが志を受け継いだからだ。
「たとえ自分が死んでも、同志がその思いを引き継いでくれるという安心感がある」。そういう心境になっていたのかもしれない。武市は個としては時流を読み間違え、抹殺されてしまうが、志士群像全体としては、その光は生き続け日本を変える起爆剤となったのだ。


幕末は、脱藩が一種の流行になって、藩を捨てることで見えてくる世界があることを、竜馬はじめ多くの志士たちは知ることとなる。
日本のために海軍を起こす、という視野に立てば、帰藩ではなく学問だ、との判断も立つ。
同様に、現代でも、日本のためにではなく、世界のためにとか、地球のためにという視野に立てば、とるべき行動や判断も変わるはずである。
それが、時流を読むことの条件であり、そこに私情を挟んではいけない、ということだ。

竜馬は脱藩で日本人としての視野は広がったが、そこに私情を挟んだために、以蔵を探したい、とか、土佐に帰らせて、と勝に申し出た。しかしそれは抱く志の水準からすれば、わがままでしかない、ということが彼にはまだ分からない。というより、死ぬまで分からないままだった。
その事は最期を迎える原因でもあったわけだが、後に触れるとする。

「時流を読む」。
読むためには、脱藩のような命がけの行動のレベルで視野を広げること。
次に必要な条件は、知った流れに乗るためには、私情を捨てること。
武市が死ぬ覚悟が出来たように、竜馬もその生き様を遠くから見届け見守るしかない、と悟るように。

私事だが、命までは賭けていないが、多少なりとも揺るぎない軸を持っている。
脱藩ほど勇気はいらないし簡単に飛べたが、福岡へ移転した。すると視界が開けて過去の自分の至らなさや、世間の時流が読めた。
次に結婚して子供が出来て、テレビのない暮らしが始まった。その事を10年続けているが、妻の父親から会うたびに「どうしてテレビを買わないのか、子供が仲間はずれにされないのか。」という圧力がかかる。しかしその私情に負けて、世間の常識に合わせてしまったら、ノイズに犯された子供になってしまうので、かわし続けている。
他にも、将来病気をしたときのために貯金をしておけ、とか、収入も少ないのにボランティアなどするな、とか、およそ志を全うするために必要と思われる決断の数々をことごとく否定されている。

脱藩と同じように親や兄弟に迷惑をかけて東京から下関まで来たのだから、途中で投げ出すわけにはいかないのだ。同志には親から「何で牛乳を飲ませないの!」とか「母乳を止めてミルクにしなさい」と圧力がかかり、それでも戦っている者もいる。
私はそうした仲間を志士と呼びたい。命を賭けて、子供の未来を守る母親志士。幕末の時勢から、現代の潮流を読めば、志まで殺すことは不可能という勇気を獲得できよう。

posted by 大石 at 16:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

竜馬伝20「収二郎、無念」

「正しかったか、間違ったか、見方によっては全く変わる」。

今回のテーマは、正義について。
何も悪いことはしていない平井収二郎が切腹を命じられた。その事が理解できず憤りを覚える妹、加尾と幼なじみ、竜馬。
しかしその結末は、自分が正しいと信じたことの行為の積み重ねで起こったこと。その事を、福井藩に召抱えられて指南役となった横井小楠は、ひまわりの種かなんかをポリポリやりながら、
「値打ちのあったものが、(世の中の流れから取り残され)古びて用なしになっただけのこと」と、無常にも言い切る。
横井もまた、武士の時代は終わる、と確信しながらも、その先見の明は正しけれど、結局は、刀を置き捨て逃げたことを、武士にあらず、と非難されたことを機に失脚し、結局は浮かばれぬまま世を去った。

自ら「人間の命など世の中の流れから見れば、芥子粒のようなもの」と見据えた通りになったわけだ。命を賭けて国を守ろうとした武市や平井をどうして嘲笑できよう。時代の変わり目とは、何が起こるかわからない、明日は我が身なのだ。
しかしながら、この時代、正義の在り方が風のようにあちこちに移ろいゆくけれども、決して現代には真似のできないことがある。真似できないが規範としたいこと。

それは、「自己責任」。自分でしたことは最後まで責任を持つ。

この姿勢が、はっきり言って半端ではない、ということ。これは今の政治家を持ち出すまでもなく、誰の身にも心に刻み込むべきであろう。
平井は、死ぬことになったことを、武市のせいにしたか。答えは否。
「幸せでした」と涙ながらに訴える姿は、ドラマにどれだけフィクションがあろうとも、その時代のどこそこにあった武士の生き様であり、日本人の美徳だったはず。
弱虫、とののしられながら、党から離脱し決して小攘夷に乗らなかった竜馬。
貧乏暮らしを余儀なくさせられても、決して父親を恨むことなく、蔑まれながらも商人の道に活路を見出した弥太郎。
そして大殿様に忠義を尽くすことが己の定めと覚悟を決めて、決して裏切ろうとはしない至誠を貫く武市。

その想いは、決して妄信などではなく、自己責任から来るものであり、その帰結として「切腹」という儀礼があったのだと思う。自分は自分の信念に基づき、決して後ろめたいことはありません、との証しに。ただ迷惑をかけた報いは受けます、という意味で。

正義を貫くとは、真に勇気がいるものだと思う。その心に揺るぎない中心軸がなければできないからだ。

何が正しくて何が間違っているか、ではなく、自分がどうしたいか、どう生きたいか。ここに真の正義を貫く原動力がある。そしてその結果、報われずとも、そのことを周囲は、どう見るか、どう受け継ぐか、が大事だと。

身近に起こったこと(艱難辛苦)をどう捉えるか、どう生かすか、が肝心かと思われる。

竜馬は言った。
「10年後、堂々と土佐に帰れるように」と。立派に志を全うして見せます、という思いを兄に伝えた。
当時長州の仏僧にも月性という勤皇派がいた。有名な詩をここで披露しておく。現代の旅に照らして、自己責任の重みを考えてみよう。

男児、志を立てて、郷関を出ず。
学、もしなるなくんば、また帰らず、
骨をうずむる何ぞきせん、墳墓の地。
人海、至る所に青山有り。

(訳)
男たるもの、故郷を立って旅に出てひとたび志を立てたなら、
学問(当時学ぶということは、生き方を確立するということだった)
を立てずに、どうして(手ぶらで)帰ることなど出来ようか。

骨をうずめる場所などいくらでもある。
世間には、至る所に、山や丘があるではないか。途中で死んだらどこにでも埋めてくれればよいではないか。

posted by 大石 at 15:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

竜馬伝19「攘夷決行」

人生には上り坂と下り坂と、そして真坂(まさか)という第三の坂があると言う。藩主を信じて疑わない武市は、この真坂に遭遇し、運命を決めてしまった。
今回、勝が言った台詞で私ははっと、気づくものがあった。幕末からざっと50年後の第二次大戦前夜に向けて、それを避けることの出来ない世情と相成った根本原因としての思想が、そこに描かれていたからだ。

勝は、用心棒となった以蔵に向けてこう言った。
「俺もな、こう見えても、攘夷派なんだぜ」と。
「え?」と反応する以蔵。幕臣でありながら、幕府と敵対する思想をいとも簡単に言いのけるのは、この人物を置いて他にはない。

卓越したバランス感覚の持ち主だ。それ自体、奇跡の人と言わざるを得ないが、貧乏暮らしの中で学問に打ち込み、オランダ語を操り世界の事情に精通し、江戸の庶民を愛して出世しても己を見失わず、剣術で感覚を鍛えたからこそ獲得したバランス感覚だろう。曰く、

「攘夷にも『小攘夷』『大攘夷』があるんだ。『小攘夷』は、異人と言えば誰でも殺してしまえ、という浅はかな愚かしいことだ。でも『大攘夷』は違う。
国がまとまって国力をつけ、それで戦争をしなくても済むようにするのさ。強い国を作れば、国を守れる。これが俺のしたいことさ」。と。(台詞は違うが)

「(攘夷決行の日)5月10日が来れば、わしが正しかったことが証明されるぜよ!」と信じていた日に「どこで間違ってしまったのか・・」と挫折感を味わう武市は、まさに『小攘夷』の先鋒だったわけだ。
後世の眼から見れば、誰が見ても愚かしいと思えるが、
「侍が殿様を裏切ったら、それはもう、侍ではないぜよ」との認識は通常の武士階級には、それはもう骨の髄まで染み込んでいる信念であり、
切腹を悟ったとしても逃げることは死ぬよりつらいことだったわけです。

そういう辛さや美徳を知っているからこそ、勝は武市を哀れんでも生き様を否定はしなかったのですね。かくして大攘夷は決行された。
つまり、攘夷決行の日を境に小攘夷派は大挫折を味わうが、その日を境に、海軍を強くしないと攘夷は実現できない、という事に日本中の志士たちが目覚める。そこが長州の功績であり、高杉晋作は上海渡航でそこまで読んでいたのだ。(ここは後に触れる)

しかし時代は明治に入り、勝の切望した強い海軍は誕生するも、戦争は止まず。軍国主義へと突入してしまった。竜馬ですら、皇后様の枕元に現れ煽り役をやらされて。
その思想的背景に、武市をモデルとする小攘夷の想念が色濃く影響していると思われる。つまり、藩主を崇拝し妄信したように天皇を神格化し、裏切ることは日本人の恥という信念体系を創り出し政治に利用した。
文久3年5月10日は、日本が舵取りを誤るか、新しい流れを作るかを見定める最初の分水嶺だったように思われる。
「よしこれで、日ノ本は本流に入れる」と確信する人物より、悔しくてまた仕返ししてやる」と復讐心に燃える想念が勝ってしまった、という意味で、明治は未完成のまま昭和に向かってしまったと考えられる。

日本中が、真坂の坂をまっしぐらに向かい、300万人近い同朋を失った戦争へとつながっていった。(つづく)




タッチセラピー協会で提唱している、
「国境(はて)を癒す」〜皮膚感覚を溶かし、境目をなくす〜
posted by 大石 at 10:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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