私は、毎年1,2回「萩・下関志源探求の旅」ツアーの運転手兼助手として、もうかれこれ10回はツアー引率を行った。参加する方々はすこぶる高い志を有する経営者が多く、和道を極めようとなさっている方々だ。花燃ゆのドラマの最後に、萩の名所が紹介されるが、その度にツアーの最中に得た感動が蘇る。
ツアーと言っても一般の観光案内とは趣向が異なる。和道の提唱者大和先生のレクチャーが主の志を探求する機会に溢れている。何より明倫小学校でのお話がじーんと胸に響く。
「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり。これは、『松陰先生でさえも、幕府を突き動かすことが出来なかったのだから、我々凡人がどうして至誠を持って人を動かすこと出来ようか、無理に決まっている』と、当時は思ったものだが・・・・。」というお話から始まる。
萩ツアー引率者である大和先生は松陰先生の生まれ変わりではないか、と思うほど風貌や志の水準が似ている。萩出身で明倫小学校に通っていたというから、縁が深い。加えて、藩主(毛利)の子弟教育を代々担っていたというから、真に真に迫る。
先生によると「どうせ無理に決まっている、とあきらめるのが凡人で、(松陰先生のような君子は)決して諦めず、誠を貫く。決して心を動かされないはずはない、という初心貫徹の姿勢こそ立派なのだ。
松陰先生は、志を貫いて、最期まで貫き通してそして死んでいった。ゆえに至誠の人なのであり、そういう生き方をこの言葉、『至誠にして動かざる者はいまだこれ有らざるなり』が現しているのだ、と。
私は何度聞いても、志を共有する者同士の共鳴もあるのであろう、「自分も至誠を貫き通せる人間になりたい」と思うのである。こんな内省が起こる萩観光ツアーは他にはないであろう。
さて、大河ドラマはようやく、松陰出獄の時を迎えた。
時代がまだ幕府の威光が残っている緩やかなシナリオ段階だから、今のうちに、松陰先生の思想と、明治以降の関わり、国のカタチ(国体)に大きく影響した点について語っておこうと思う。
今年は本ブログを通じて一貫して『松陰先生が国の形、すなわち国体を形成し、今日の平和国家日本の礎となった。』という大胆な視点を解き明かす事に挑戦する。
そしで花燃ゆの中で出てきた、この台詞こそ、私が最も大事にしている松陰先生の言葉で、かつ、バースビジョンを発見するための鍵として大切に育んでいる言葉だ。
松陰先生は、かの『福堂策』において、
『人賢愚ありと雖も(いえども) 各々一二の才能なきはなし』。と、唱えた。
大河ドラマの解説を引用すると、
どんな者でも必ず優れたところがある。
獄の有りようを整えれば人は必ず罪を改め生まれ変わることができる。
という。まことにもって、簡単には凡人には真似の出来ない素晴らしい志を実践されたと思う。
先生が教師になれば、たちどころに不良少年は更生し、いじめのないクラスが実現するのであろう。
至誠を貫く姿勢がありさえすえば、どんな人の中に眠っている良知を呼び覚まし、悪玉菌を追い出し善玉菌を繁殖させ得るのだと。そうしてひとたび繁殖した善なる心は次々と心の中で連鎖反応を起こし、周囲を感化させ、支援者を引き寄せ、幸運を呼び込み、別人格に成ったかのごとく、生まれ変われる。
世の中には自己啓発的な書物が溢れ、成功するためのノウハウが至る所にある。その書物の中には松陰先生の言葉を引用したものも最近では少なくない。しかし・・・。
しかしながら、先生の教えが世に広がるのは良しとしても、それを著す人たちがどれほどの覚悟を持って言うのかはなはだ疑問に思うことが多い。ビジネスで成功するためにわざわざ松陰先生の言葉を借りずとも良いではないか。幸せな家庭を築くとか、世の中の役に立つ商売をするとか、そうした個としての自己実現欲求を果たすためのノウハウを遺すために松陰先生は生まれて来たのではない。
我流の表現を用いる事を許してもらえるのであれば、松陰先生は、
『日本国のバースビジョンを明らかにするために生まれて来た。と言えよう。換言すれば、日本人としての明徳を明らかにし、日本国という尊い価値を世界に記したい。たとえ我が身が存する間に不可能であっても、後世の世にそれを託す事を予め決めて生まれて来た』・・・と私は思う。(本当に僭越でお恥ずかしい限りだが)
かくなれば、先生のバースビジョンは成就していない。幕府崩壊という現実を天から見て(あー私の生きた証を目の当りに出来た、これで成仏できる)とは、思ってはいまい。日本国が真にその生まれた目的を全うするには時がまだかかる。頼むぞ、諸君、と、平成の世に、私たちに語りかけているように思えるのだ。
日本のバースビジョンを明らかにするには、何より日本人一人ひとりの天命を知る必要がある、その一人ひとりはかけがえのない一人であって、何人もその人なくしては困る、というほど尊いもので、それぞれ生を受けたからには、かけがえのない役割がある、それが何かを見出し、育み、その英知や才能を世に知らしめ、社会の何がしかに貢献すること、それが至誠を貫くことに通じる。そうした日本人が増える毎に、日本という国の天命も明らかになってこよう。
そういう希望に満ちた道筋を、松陰先生は後世の人たちに遺して死んでいったのである。たかだか260年続いた幕府を瓦解させるための引導を渡す役ではない。
人の中に眠るバースビジョンを紐解く鍵がこのフレーズだ。
『人賢愚ありと雖も(いえども) 各々一二の才能なきはなし』。続いて、
『湊合(そうごう)して大成する時は、必ず全備する所あらん』。
訳は、「人にはそれぞれ能力には違いはあるが、誰でも一つや二つの長所を持っているものである。
その長所を伸ばせば、必ず立派な人になれるであろう」。
この訳は、明倫小学校で用いられている道徳の副読本から引用した。そう、昭和のある時代に、道徳を学校で用いようと文部省で提言した時期があるが、その時山口県では、真っ先に松陰先生の言葉を用いよう、と決まったそうである。その際に山口県教育会が発行した書の中に、人賢愚・・・がはいっている。
花燃ゆの台詞の中に、松陰先生の言葉として、
「(福堂策を著したからには)、一人でも二人でも(その人なりの優れたところを見出し)世に送り出すことこそ、殿への忠義の道と心得ております。」とある。ここで再度恩義を扱うとしよう。先生は藩主への恩義から、獄につながれては獄でしか出来ないことをしよう、と善性を自らに見出した。
獄を更正施設とすべきだ、との獄中からの建白書「福堂策」をしたためたからには、我先に出るわけには行かない、と律儀に拒んだわけである。これは頑固さではない、忠義者。至誠の人だ。
そのまま獄で朽ちていく事を知りながら、どうして特赦を拒否できようか。正直私には到底真似の出来ぬ話だ。人の心に善性や良知を見出そうと努めているが、どうしても諦めてしまう。
この親にしてこの子だな、もはや、三つ子の魂百までだから、小学生に上がってから教育しても無理だな、まして大人になってから研修しても無理だ、などと見限ってしまう。
恩義あるひとつくりなど夢の夢だ、と。そう、すさんだ心に陥ったとき、松陰先生の言動を思い起こすと勇気が沸く。
出獄を拒んだ松陰に対して、ある獄中の者から、
「真に更正したかどうかは、獄を出てみなければ分からん、ということじゃ。世に生かされて初めてここが福堂と呼べるのだ。」と、言葉を返されて、ようやく獄を出る覚悟が定まった。というシナリオになっていた。
ひととせの 夢か別れの 寒さかな
という句に送り出されて。何とも味わい深い、送別会なことか。
して、松陰先生がどうして獄から出ることを拒んだのか。凡人なら「ラッキー、お先に」と、手のひらを返したように、利己に走るであろう。しかし松陰先生は違った。恩義の奥にある、究極の恩義に報いんが為に、頑なに拒否した獄を脱したのだ。
次回、この君子と小人の差に関して、二十一回「孟子」を題材にして、説こうと思う。