2015年01月29日

文と長州とバースビジョン=その4;知行合一について=

幕末維新の流れはいつから始まり、いつ終止符を打ったのか、という歴史的な問いには、歴史学者の間でも未だこれという結論が出ていないらしい。が、それは解明出来ないのではなく、”したくない”というのが実情だと私は思う。何故か。
私は思うにどう考えても、大塩平八郎の思想から端を発しているとしか思えない。たった1日で鎮圧された1837年の大塩平八郎の乱を発火点として、そののちおよそ30年後の幕末期において安政の大獄で死罪となった松陰先生の「身はたとい・・留めおかまし大和魂」の世辞で倒幕へ向けて火が燃え広がり、明治維新後、およそ20年たった西南戦争で西郷隆盛が自決するまでの50年を一つの「区切り」とすべきだと思う。
その人脈(家系)的にも地縁的にもなんら系譜があるわけではない、これらの人物の思想と行動を共通するキーワードが、花燃ゆでも、登場した『知行合一』(ちこうごういつ)という行動規範だ。倒幕から維新はこの言葉たったの≪四文字≫で成し遂げられたと言って過言ではない。
尊皇攘夷の思想が成しえたのではない、尊王倒幕でもない。尊王開国という対立していた両者の融合理念で成し得たのだ。それゆえ『知行合一』を旨とする陽明学を学んだ者の中には、河井継之助もいた。佐幕派の中にも勝海舟のように佐藤一斎を通じて陽明学を学んでいる者もいた。だからこそ日本を変革する維新も成し得たんだと言える。思想的共通基盤があったのだ。思想と言うより陽明学と言う行動基盤があり、それを体得していた志士たちの共通言語が『知行合一』だったのだ。相対立する両側に陽明学をバックボーンに持っていた、という事は明治維新が世界史にも稀に見る奇跡の所以の一つだ。

会津陽明学なる一派も存在していたらしい。もっとも藩主が幕府に倣い陽明学(心学)を禁止の学問にした時期もありで、表立って継承出来なかったらしいが、その辺りも藩の命運を分けることになった遠因と言えよう。
その点、長州藩は、言論統制が厳しい当時では稀に見る柔軟な藩であった。先日村田清風記念館に行って来たが、村田は藩政改革に成功した変革者だった。その抜擢人事だけでも封建社会ではすごい事だったが、明治維新の先駆けとも呼べる大塩平八郎に感銘を受け、藩校のトップに会いに行くように薦めたという。村田清風に感化された松陰先生は、平八郎に会いに行った人から直接兵学を学んだというが、まさに『知行合一』を体得した人物を身近に感じた事だろう。
明治維新を語るにあたり、陽明学を無視しては正しく解明できまい。長州藩こそがこの『知行合一』を旨とする行動の先頭に立ち、周囲を巻き込み、維新を成し得たわけである。

『知行合一』とは陽明学の中に出てくる言葉で、言わば保守派の朱子学に対して、革新派の行動規範とも言える。大河ドラマ花燃ゆの台詞を拝借し説明するとすれば、松陰先生曰く

「自分の人生をどう使う?命をどう使うのか。知識など意味はない。行いを伴ってこそ知識は意味がある。
(己の主張する国家のあり方を論じた)想いが(幕府に)届くなら、命などは惜しくはない。(今の人たちは)日本国の危機に気付いていても動かん。じゃから私が動いてこの国を守らなきゃならんのだ」。

という想いに現れている。「知は行の始め、行は知の成り成り」と言う。「命をどう使うか、そればかり考えている」(ドラマの台詞)にて先生の熱い想いは、その場で行動の表れとなってゆく。
幕末維新の流れはいつから始まったかを国の御用聞き学者が解明”したくない”理由は、明白だ。陽明学を表に出させて社会秩序を混乱させたくない為政者の情報操作以外に・・・ない。

『知行合一』は、またバースビジョンを発露させ、命の使い道を見出す鍵でもある。今後、≪陽明学の成就としての幕末維新≫を、ドラマの進行に合わせて紐解いていくことにする。
そこに欠かせない議論が、孔子と孟子の違いと、松陰先生の解釈、その延長にある尊王論、そして国体論だ。



◆よもやま話◆
今、子供たちには、映画『るろうに剣心 伝説の最期編』をDVDで見せていた。次男から3歳の長女まで4人とも。≪長男は既に映画館で見てきた。「よかったよ」というので、DVDが出るのを待っていた≫。
子供たちは「二本差し」つまり武士が好きだ。3男聖也は、チャンバラ遊びするのに、小さい頃から、腰に二本
指していないと気がすまなかった。3歳の頃、
「どうして一本じゃダメなの?」と聞くと、「だって、・・・。かっこ悪いし。どうしてもダメなの!」と言い張っていた。武士の魂を呼び起こしてしまったかしら?理屈などないですよね、武士なら、どうして二本か、など。大小は当たり前ですから。聖也の心に揺さぶりをかけて、バースビジョンを思い起こすきっかけを与えたわけでした。

今日は、4男が鼻をグスグスやっているだけで「静かにして・・」と気になるほど集中していた。結構長い映画だったが、一言もしゃべらず、真剣に集中していた。全員だけど。私も含めて。
聖也に「これって本当にあった話だと思う?」と聞くと「いや、(違う)」と、聖也。「だよね。でも本当にあった話を元に、それを大げさにして作られているんだよ」と私。
本当にそうだと想う。深い物語だった。現代にも警笛を鳴らしている作為が感じられた。明治政府高官になった者達に「あんたらも元は武士だったんだよな。高官になって武士の魂忘れたのか?」と。
その言葉を浴びせられた者の中には、長州の伊藤博文(初代総理大臣)もいた。聖也に向かって私は
「伊藤博文って、どんなドラマにも良いイメージで登場しないんだよね。人気が無いんだよね。元は、晋作の弟子だったんだよね。」とだけ伝えておいた。悪役(火達磨で死んでいった・ししょう)の中にも、正義がある。その事を伝えたかったが、まだ言葉では伝えきれなかった。明治のねじれを解明するまでは、死ねない。そう心に誓って。代わりに分かりやすい、興味の持てる話をした。
≪本当は、「敵が死んだとき剣心の目に涙が流れたのは何でだと想う?」と聞きたかったのだが、私にはまだ答えられないから。何故、明治政府は、奇兵隊を裏切って(見捨てて)秩序維持を優先せねばならなかったのか、子供にも分かる理由がまだ見つからない≫

「ジャンプ力がスゴカッタ」というので、「あれだけ速く動ける人たちが、昔はたくさんいたんだよ。ピストルで撃つよりも速く後ろに回って(撃とうとした人の)首を絞めることが出来たんだ。引き金を引くよりも速く、ってすごいスピードだよね。(有名な武術家の本当の話)

「剣で勝つには何が一番大事か分かる?」と風呂上りの聖也に聞いた」「あのね、パワーがあっても勝てない。えい!ってやったときにかわしたらやられる。では、スピードが同じだったらどうする?」「うんーーーと、分からない。」「相手の動きを読むんだ。相手が何をしようとしているのか、それを読み合うんだ」と。

「それって、ドッジと一緒だよ。アタックするのかパスをするのか、読む。逆にアタッカーなら読まれないようにする。分かった?剣もドッジも同じだよ!いつもパワーはなくてもいい、スピードとキレって言っているでしょ、おんなじよ!」と。武術の達人や、るろうに剣心と、日頃のドッジと結び付けてしまう私。

試合は、元々死合いから来ているのだ。死ぬ気で闘え、とはスポーツの世界では良く使うが、死と隣り合わせと言う意味。だから、私は、
「当たって外野に行くって事は、死ぬんだ!」「いいか、お前はもう死んだんだ、そう思え!」と指導していた時期がある。それだけの覚悟を持ってキャッチせよ、と。
すると、お母さんから「うちの子にどんな教え方をしているんですか?
心が傷付いてしまったんですよ。死んだんだ、なんて!そういう言い方は辞めてください。」と叱られてしまった。それ以来、萎縮してしまった自分もまた、情けない。身に付いていない知識を言動にこじつけるからトラブるんですよね。分かってます。。知行合一の修行が足りません。。
以来先ず自らキャッチの極意を会得しようと。で、目下、高校生の球を取る訓練をしています。50になって動体視力が衰えて球が見えないんですね、これが。文武両道、山本五十六。≪この方も陽明学を修めたという≫「やってみせ。やらせてみせなば、人は動かじ」。これで行きます!監督の中では実践派を自認していますが、まだまだ。


posted by 大石 at 02:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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