2015年01月12日

文と長州とバースビジョン=その2;至誠について=

第二回目の言葉『至誠にして動かざるものは未だこれ、あらざるなり』は、最も松陰先生の特質と気高さを現している。そこで我が勝山ドッジファイターズでは、子供たちが練習開始時にこの言葉を唱和し、公式戦では『至誠』鉢巻を締めて試合に臨む。一応意味としては「真心を尽くせば人の心は動かないはずはない、と言う意味だ。だから『どんなに強い相手でも懸命に闘えば勝てない相手はいないのだ!』」と子供たちには違約し(拡大解釈)している。かくしてどうしようもなかったチームが冬の大会で県内第三位まで登り詰めた。
どのみち今の小学生に『至誠』の真意を伝えたところで通じるわけも無く、ただひたすら声に出して唱和(音読・素読)する事が尊い学習法である。江戸期に成熟した学問の基礎をなす素読は平成の世でももっと注目されるべきであろう。

さて至誠を最も尊ぶ松陰先生は、友の友情と自分の命を天秤にかけて、友を選んだ。当時脱藩は、死罪である。いかな武士とてそこまで至誠を貫き通せる御仁は他に類を見ない。藩主への、これもまた命がけの周囲の働きかけが功を奏し、死罪や遠島は免れ、藩士の身分剥奪及び謹慎処分となったが、花燃ゆでは、そんな覚悟の東北視察から戻った先生が、鬼の師匠から叱らせるのを自宅の周りを恐れて逃げ回る、という失態を演じ視聴者の笑いを取る場面があったが、閉口ものである。幕府の評定で死罪覚悟の申し開きの際、幕府要人暗殺計画を暴露してしまった至誠の人が、どうして師匠から殴られるのを恐れて逃げ惑うものか。堂々と所信を述べたに違いない。
一流の脚本家が二人も付いていてこの有様では先が思いやられる。もしも愛弟子の晋作がこの花燃ゆを観たとしたら、先生の尊厳を辱めたとして、NHKに殴り込みをかけ、プロデューサーを斬ったに違いない、それが至誠というものではないだろうか。
視聴者の受け(人気を上げるための小手先の演出)を狙って、歴史と人物を歪めおもしろおかしくその場をやり過ごし、給料や名声を得んがために番組の質を落とし、かえって視聴率を落とす羽目になる。目に見えた逆スパイラル現象である。何をかいわんや。
そう言えば、龍馬の大河ドラマをアピールするための、NHK担当プロデューサーなどがパネリストとなる催しに息子と行って来た事があるのを思い出した。その席で質問の時間があり、ある下関在住の男性はこう質問した「下関は、何回番組で登場しますか」と。それ次第でどの程度観光に力を入れるか測るという意図が見えたので、恐らく市の観光課か、大河ドラマ人気にあやかろうとする地元民だ。自分の利益の事しか考えていないバカな連中だなと思った。それだけではない。
その次の質問は「えーと、お龍が風呂場で龍馬の危機を知り、『捕り方!』と知らせに行く場面は、どのような姿で描く予定ですか」と。公然の面前でそうした破廉恥な質問をする人間が何人もいるのが現代の下関と言う地である。志の欠けらもない。ある作家さんはその催しでの発言で「晋作は人気がないんです、真面目で。龍馬のような華やかさがないから。だから下関に龍馬の記念館を建てるべきです!」と声高にPRしていた。(何を言っているんだ、この長州人は?)と耳を疑った。郷土が育んだ英雄をないがしろにして、メディアが捏造した要領の良い下宿人の龍馬を?著名な方なので名前は伏せておくが、晋作の本は売れなかったから、そういうのだろうか、と情けなくなった。皆が皆、どうしたら儲かるか、経済一辺倒しか考えていない。それが下関の実態なのだな、と悟ってしまった。地域そのものがバースビジョンを喪失している、と感じた瞬間だった。
大河ドラマ=観光開発の切り札、という図式が全国に浸透しているのだろう。それは悪い事ではない。しかしそれを起爆剤にして、深く歴史を洞察し現代にどう活かすか、もうすこし志を高く掲げて市民を啓蒙できないものだろうか、と思う。

松陰先生の至誠には、とても達する事が出来なくても、その下部概念とも言える『義を見てせざるは勇なきなり』ということわざくらいは、身に付けたいものだ、と私は日頃から心がけている。
義は、私の最も大切にしたいと想う心がけだが、その中でも最近は、『恩義』を大事にしたいと考えている。
物語に照らして、恩義を明らかにしてみよう、言うはやすし、行うは難し、である。

簡単に言えば、先生が脱藩の罪を犯した事で、姉(寿)の縁談が破棄されてしまった。しかしその因果関係は松陰には与り知らぬことだったが、罪を犯せば家族が困る仕組みになっているのは江戸時代の常識だ。では何故それを百も承知で国禁を犯したのか。それは、恩義ゆえのことではないか。同行しようと決めた友人への思い、それに、自分を育んでくれた藩への想い。

義、すなわち正しいと思う行い、とは、志の心から生じる想いだ。しかしその志のレベルは人それぞれ異なる。志の水準は私が書いた「幸せの未来が見えるバースビジョンノート」【以後バースビジョンノートと略す】にあるが大きく分けて三段階ある、それをドラマの第二話の筋書きに沿って解説しよう。
(→は、現在風に言えばこうなるだろうという事例)


◆第一段階◆
家族の幸せ【姉の縁談】を守るためには国の法律【脱藩=国禁】を守らねばならない。
→お姉さんの結婚が破談になったら可愛そうだから、弟の自分の立場としては、せめて婚姻届けを出し終えるまでは、不良や非行は慎み、社会のルールも守って親孝行をしよう。

◆第二段階◆
親友(宮部や約束した友人)の信頼を裏切るくらいなら、武士の身分【藩籍】など捨ててもいい。
→上司の言うままに不正を働いて顧客の信頼を裏切るくらいなら、辞表を出して会社の不正を暴くとしよう。

◆第三段階◆
国(長州藩)の面目を保つ為には、我が藩籍も命も要らず。
→日本の自立も面目も果たせないような悪法は、政治生命はもとより我が命を捨てても構わない。

・・・という具合に段階が異なる。当然だが、松陰先生は、第三段階のピンの位置におられる。
だがここで誤解してはならないのは、レベルが高い方が正しく、低い志は間違っている。故に、第一段階は義などではない、という考え方だ。これは違う。どれも正しい行いであり、義ある行為だ。今風に言えば価値感が違う、目指すものの違い、となろう。江戸時代の武士なら同じような価値観があったかと言えばそんなこともなかろう。先生の元からは幾人もの門下生が去って言ったというから、いぶかしげに観る眼差しは、相当なものであったと推察できる。家族への視線も然り、だ。

そうした反対する意見や、足を引っ張る視線、蔑視、誤解、裏工作、地位の剥奪、信用を失う事などをものともせず、初志貫徹できるかどうか、義に殉じて至誠をもって行動やビジョンを曲げぬかどうか、ここが凡人と武士の違いだと心得るべきだろう。
たとえ姉が結納を済ますまでは、学校でタバコをふかし退学処分になる事態は我慢しようと言う高校生弟がいたとして、それもまた立派な志であり、至誠を貫いたと言っていい。悪仲間からは臆病者扱いされたり、蹴られたり仲間外れになるだろう、それでも一本も吸わねば、松陰先生は褒めてくれたに違いない。
国禁を破って黒船に乗り込む勇気と、それとは、はたから観たレベルの差は有れども、約束としての重さは変わらない、立派な事だ。

◆よもやま話◆
今、子供たちは、学校に行って、サッカーを愉しんで帰ってきた。持久走コースを何週も走ったあと、6歳緒三男と20分くらいかかる帰り道を走って「ただいま!」と。
その子達には、ドッジボールを至誠を貫くことを学ぶ場として(チームを)用意してあげた。
次男海斗は本当は野球チームに入りたい、将来はプロ野球選手になる、という志があり、実際、5年生のとき強い野球チーム監督から強くお誘いを受けた。「ドッジもいいかも知れないが、将来を考えたら、今の内から是非うちのチームで野球をやらないか」と。しかし海斗の返事は、NO。理由は
「友達をたくさんドッジに誘ったので、その友達を裏切る事になるから、ドッジは辞めない。すいません。」と。利より義を取った瞬間である。松陰先生の言葉の素読の成果がこんなところにでているのかしらん?(笑)。

それが彼の小学生としての精一杯の恩義に報いる行為である。友情を裏切らない至誠の心だ。

(つづく)

posted by 大石 at 17:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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