2010年11月24日

龍馬伝46「土佐の大勝負」

先日旅先でNHK番組で、ワタミフーズの社長が高知の中学生を対象に座談会(研修)を行う場面を見た。竜馬が往くを愛読した渡邊さんは、「自分の《好き》を見つけ、《好き》を極めることが、夢を切り開く原動力だ」と切々と訴えていた。同感である。
龍馬ファンでもある中学生の鋭い質問に、渡邊さんがどう答えるか注目すべき場面があった。「自分のためではなく、人のためにやるべきではないですか?」と。対して「ホント?私は違う、全部自分のためにやってきた」とあえて反論する渡邊さん。男子生徒は女子生徒を援護して「自分も大事。」と反論するも、渡邊さんは妥協せず、No、を繰り返す。

「確かに、他人のために働く動機も必要だ」とか、「自分も人も大事だね」などと妥協しない。まして、どこにでも転がっているような「自己犠牲してでも、他人の為に身を尽くせ」などとは言わない。そうやって利他(他人に先に利益を与えよ)を教育指針にして、結局人を使って駒にして、大儲けしているネットビジネスもあった。渡邊さんのような実践経験を通じて演台に立つ人は、口先ひ一つの研修畑一本の人たちとは、言葉に重みが違う。龍馬観も独特だ。さて、

自分のやりたい事をやり遂げるための人生か、それとも、他人のために生きるのが人生であるべきか。

その問いと今回の龍馬伝を結び付けて論じたいと思う。

番組で中学生が龍馬の凄いところはどこか聞かれて、自分のことより皆の幸せを願って、社会の仕組みを変えた所が凄い、と答えたのを受けて渡邊さん曰く、「本当か?」と否定的な発言の後、
「龍馬は、《好き》を見つけ、《好き》を極めようとしただけなんじゃないかな。
船が好きで海が好きで、世界の海に出たいという、自分がやりたいことを思いっきりやるためには、社会の仕組みがじゃまだっただけで、自分の夢の為に薩摩と長州を結びつけたり、大政奉還をしたりしたんじゃないかな。それが結果として世の中の仕組みと歴史を変えることになっただけで。」と、丁寧に説明していた。
《好き》を見つけ、《好き》を極めた人だけが発することができる台詞だ。全く同感である。

しかし好きにも段階がある。今時小学生に好きなことをしなさい、と言ったら、宿題よりも遊ぶことが好きだから家に帰ったらゲームの続きをします、先生に好きなことをしなさいって言われたから、となろう。好き=わがまま、と同義語になっている世代にとっては、縛りや規制やルールや課題や
宿題や罰則や教育が必要になる。だから学校の先生は「好きなことをしなさい」よりも「ねばならないこと」を強調するのはやむを得ない。

ところが、20代になり30代になっても永遠に「ねばならないこと」で覆われた生活を送っている人が多すぎる。だから逆にその枠組みから離れて好きにさせて!というスピンアウトのようなニート族のような集団が形成される。自分探しの旅という名の隠れ蓑に覆われた現実逃避型の人間が増えてしまう。

番組の中学生の全てに戸惑いが隠せなかった。社会的に成功している社長が目の前に立ち、「君たちも龍馬のように立派に社会に貢献する人間になりなさい」と言われたら、「ハイ!」と疑いなく答えたであろうに、渡邊さんは、心にカオス(混沌)を生み出した、《好き》を見つけなさい、と。
見つけたその《好き》が将来仕事になる保証はない、仕事になる種類の《好き》ばかりではないし、ライフワークで生計を立てるのは楽ではない。というよりも、好きも進化し、脱皮しなければ、本物の《好き》に出会えないのだ。そのことは、龍馬がどれほど《好き》を手放していったかを見ればよく分かる。郷土の好き、仲間の好き、師匠の好き、異性の好き、みんな手放して、さよならして、海という《好き》にこだわった。


刀よりソロバンが役に立つときが来る。そう言われて弥太郎の元に上士が集まった。商売が好き、の弥太郎に惹かれて武士の階級を捨てて同士が生まれた。
幕府に恩のある土佐の殿様に、幕府も藩もいらない、将軍も大名もいらない、そういう世の中を作るために進言する龍馬。その場で打ち首にされても文句は言えない大それた発言を、《好き》を極めるためにやってのけた。すると、徳川への恩よりも目の前の若造への共感の方が勝ってしまう。
史実は多分に利害打算が働いたとは思うが、武士の世において土佐何十万石を賜った恩を裏切ることは、断腸の思いだったはずであり、龍馬の好きは、個人の欲を超えた日本の将来を見据えていただけに、個の利害を超越したところに共感を生んだことは疑い得ない。

少なくとも仲間たちを殺した個人的感情から、殿様は嫌い、というなら大政奉還の話はなかったわけで、好きにも次元がある、ことを如実に表している。

つまるところ渡邊さんの言うレベルの《好き》を極める、とは、《志》を見つけ、極める、と言い換えて差し支えない。志を遂げる、と言う意味で、好きという想いを捕らえるならば、好きなことをするということは、人の喜びにつながることが「前提になる」話であり、成し遂げると言うことは、同時に周囲や社会の役に立つ、と言う結果を必然的に起こす。

よって、女子生徒の素朴な疑問「自分のためだけに生きてちゃ、いけないんじゃないですか?」との疑問は、まだ自分とは他人とは隔てられたものであり、自分の好きなことを貫いては、人の迷惑になる、だから人のために「も」、何かをしなければならない、と考える世界に生きている、ということになり、自分のための時間と人の為に費やす時間がまだ分離している状態であり、ゆえにそういう段階において好きは、まだ志の域に達していない、と言える。
つまり、自他境界線があるうちは、まだ渡邊さんの真意は理解できない、「全て自分のために、だけずっと生きてきた」と宣言する講師を見て、(何てわがままな社長なんだろう、うちの父さんと大違いだ、人の為に働けっていつも言っているし)と軽蔑されてもおかしくない。

それでもあえて渡邊さんは、《好き》を貫け、視野を広げて(本当の)《好き》を見つけろ、と自然の中に連れ出して五感に訴えていた姿には、真の教師である、と敬服した。

龍馬の画策した大政奉還は、多くの失業者を武士階級から生み出すことになる。力で民を抑えていた権力機構が崩壊するのだから、胡坐をかいてきた武士はすべからくリストラするのだ。
世直しだ、と言って騒いでいる人々が、いざ自分の生活に影が及ぶとしり込みしたり反対派に回るのは世の常だが、それを知りつつ、突き進むためには、よほど覚悟の伴う《好き》のエネルギーがなければ成し得ない。だから龍馬は単に海に出たい、ということではなく日本人が好きという気持ちが強かったのだ、だから大勝負で自分を押し通せたのだ、と思った。

暗殺まであと40日。武士も大名もいない世の中に何が残る?の問いは、現代に直せば、経済も医療も失った日本に何が残る?とでも置き換えてみようか。あって当たり前のシステムのうち失って困るものはどれだけ身の回りにあるだろうか。






posted by 大石 at 17:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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