2010年05月06日

竜馬伝17「怪物、容堂」

次々と展開する歴史の核心へ向かう大河ドラマ、竜馬伝。その中でも、この数回が登場する各人の命運を分けることになろう。
武市は純真な思いの中で、忠義の犠牲者となる道をひた走り、弥太郎は、軍国主義、富国強兵を国是とする明治になるまで表に出られず、準備期間へ(つまり志士としてではなく、志士たちが命を削って新しい時代が来るのを待つ身)、そして竜馬は、攘夷派と開国派のどちらからも疎まれる独自路線へ、幼なじみの人生は完全に別の世界へ枝分かれし、運命のシナリオが回り始めようとしている。

そこで今回は、国の在り方について言及し、各人の生き様と、そして現代とをダブらせてみたいと思う。(論点が大きいので簡潔に)

ドラマ中で「アメリカでは将軍はプレジデントと呼ばれるのだが、そのプレジデントは商人でも百姓でもなれると聞いた事があるのだが」と竜馬は、目をらんらんと輝かせて、質問をする場面がある。それに対し、

「アメリカではそのプレジデントになりたい者が手をあげ、その者達を民が選び一番選んだ数が多いものが、入れ札(投票)によってプレジデントになれる。」と聞き、アメリカは民がこの国の行く道を決める、ということに感銘を受ける。

江戸時代の藩主に忠義を尽くすことが当たり前の封建主義に対して、民主主義のことを言うのだが、アメリカが真に、民が国の行く末を決めるという民主主義を徹底しているかどうか、ということは検証の余地がある。
昨今フリーメーソンに関する書物が出回っているが、予め権力者の間で次の大統領と政策が決められてきたことは暗黙の了解であるし、戦争を世界各地で仕掛けることによって利潤と権力を極大化してきた歴史は、現在でも続けられている。
平和を唱えるオバマ大統領が無人戦闘機による爆撃を強化しているのも、戦争による産業の維持も国民が望むことか、自国民さえ豊かであればそれでいい、というのが民主主義なのか、幕末当時竜馬が望んだ日本の姿なのか、そろそろ明治以来続いている竜馬的な世界観が、現代にもたらすものと照らしながら、ドラマの進行を見てゆかねばならない時期かと思われます。

つまり戦争のない民主主義がありえるのかどうか、ということです。海軍を増強しようという竜馬らの事業は当時の日本の取るべき最善策だっただろうが、その路線を美化することは現代人にとって何をもたらすのかどうか、考える機会としたいと思う(続く)。


posted by 大石 at 15:08| Comment(12) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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